日々雜雜談談

映画や本の分析。日常で感じたことの集合体

【進撃の巨人の考察】鎧の巨人を受け継ぐのはファルコ【対比構造で見えてくる物語の行く末】

エレンたちが住む国の高い壁の外は人を食う巨人が闊歩する恐ろしい世界。
しかしついに調査兵団は壁の外の巨人たちを駆逐する。

巨人はマーレ国から運ばれてきたエルディア人の変わり果てた姿だということが分かった。

パラディ島の巨人を駆逐したエレンではあったが彼の目線はマーレ国に向いていたのだった。

ここまでは22巻までのあらすじ。
23巻からはガラッと場面が変わりマーレ国側の視点で物語が進んでいきます。

巨人の力を自由に操るマーレ国。
周りの国々と戦争状態、巨人の力があれば戦争には負けないような気がします。
しかしエレンたちが育ったパラディ島とは違い世界の文明レベルは凄まじい進化を遂げています。

100 mm の口径から放たれる徹甲弾は巨人を一撃で仕留められる。
例えばの鎧の巨人であろうとです。
今や周りは巨人の力に頼りすぎた軍事国家としては周りの国々に遅れを取っている状態。

ここで注目したいのが新たに登場した戦士候補生と呼ばれる九つの巨人の力の継承候補たち。
巨人の力を手に入れた人間は13年で寿命を迎えてしまうためマーレ国では常にエルディア人から次の巨人の候補生を育てています。
戦場に似つかわしくないほど明るく機転が利く女戦士ガビを始め、マーレ側のを読者の視点キャラとして物語を牽引するファルコ。
年端もいかない少年兵達を見るとエレンたちがまだ訓練兵だった頃のことを思い出します

これはおそらく意図的な対比構造だとおもわれますがパラディ島もマーレ国も大局的に見て同じような状況にあると言えます。
パラディ島は巨人という障害に悩まされマーレ国は周辺諸国の近代兵器に悩まされています

また調査兵団と戦士候補生たちそして優秀な幹部として調査兵団団長であったエルヴィン=スミスと獣の巨人ジーク。調査兵団の迷えるエースであるリヴァイ兵長と戦士団副長、鎧の巨人の迷えるライナーが据えられています。
こうして主人公サイドとの対比を設けることにより突然始まったように感じる物語も読者にはとてもすんなり入ってくるものとなっています。

ここでもう少し対比構造について掘り下げていきます。
魅力的だったマーレの戦士候補生の何人かは、かつての調査兵団のように残酷な死を遂げました。
エルヴィンスミスが壁の中の人類の目的とは別に世界の秘密を解き明かしたいという夢があったように獣の巨人ジークにも世界中から巨人を滅ぼすと言う秘密の夢がありました。

パラディ島のエレン、アルミン、ミカサとマーレ国のライナー、ベルトルト、アニ。どちらも3人です。

壁に囲まれたエレンたちの国。柵に囲まれた収容所に暮らすライナーたちの家族。

壁中人類の、ルイス家。マーレ国のダイバー家。どちらも表には出ず国を支配していました。


マーレ国編の主人公であるファルコは対比構造から考えると本編主人公であるエレンとの対比のキャラクターです。
正確に言うと子供の頃の純粋だったエレンです。
エレンは長い時間をかけて22巻かけて、巨人の力を手に入れて、なんやかんやと黒エレンとなって行きましたがファルコはそれとは比にならないスピードで様々な経験を積んでいきます。
ファルコの大きなターニングポイントはマーレ国の外、悪魔の末裔と教えられてきたパラディ島の壁中人類と接触しているということです。

エレンがマーレ国に来るまでは本当に長い時間がかかりましたが、それに比べるとファルコはギュッと短い時間で経験値をあげてきました。

そして次にファルコはするべき経験は鎧の巨人を継承することだと思います。
今はまだエレンの対比のキャラクターとして立場が並びきれてないファルコですが鎧の巨人を継承さえすれば完全にエレンの対のキャラクターつまりライバルキャラとなるのです。

現時点の単行本ではエレンとライナーがライバル同士のように描かれていますがこの関係性は鎧の巨人を手に入れるであろうファルコに受け継がれていくと思います。

海の向こうを目指したエレン。
空高く飛ぶ鳥に思いを馳せ遠くへ行けと言ったファルコはどこへたどり着くのでしょうか。

嫁を手荒れから救った漢方軟膏【ベルクミン】が神塗り薬だった話

ベルクミンを塗り始めてからの嫁の手荒れがどんどん改善されていっている。

一週間単位、1ヶ月単位ではない1日ごと効果を実感できるほどにだ。

今は完全に完治までもう少しといったところ。

しかも一本(20g)をいまだ使い切っていない。(最近嫁が日中に塗ることをサボっているからかもしれないが)

 

1年前、嫁の手はある時を境にどんどん荒れていった。

最初は右手の小指だけだったものが左手の甲側、他の指、手首。

最終的には左手まで同じように広がっていった。

激しい痒みにより夜にかきむしり朝には皮もめくれグジグジになっていた。

 

もともとアレルギー肌だった嫁。

日々の食器の洗い物や消毒アルコールなどを使った掃除などで人より薄いバリアが壊れたのだろうか。

 

とにかく右手の小指が治らなくなってからは水仕事から嫁を一切から遠ざけ、色々な軟膏や保湿を試した。

ついにはステロイドも塗ったがダメだった。塗っている間は改善するが、やめるとリバウンドが激しかった。

嫁の感覚ではあるが肌がどんどん薄くなっている感じがすると言われステロイドも3回ほどでやめた。

(ここでいう3回は散布期間であり3回数しか塗らなかったわけではない)

 

もちろん病院を進めたが嫁は行きたがらない。

過去にひどかったアトピーに対しなにも解決できなかった皮膚の医者に懐疑的なのだという。

 

もう肌荒れを治すというより、食い止めるといった生活スタイルになった。

オロナインを塗り、手にはなにもさせないことにした。

家の家事(掃除、洗濯、料理、インコの世話)は全て僕が受け持つことにした。

就寝時は掻きむしっても大丈夫なように(大丈夫ではないのだが)爪を深く切り、やり過ごした。

お風呂では嫁の髪を洗い、上がってからはドライヤーでかわかした。

 

それでもダメだった。嫁の手荒れは少しづつ進行していった。

一番の問題は寝ている時だ。人間は寝ている時に副交感神経が上位に来て痒みなどが発生しやすい。

そして本人の意思に関係なく掻きむしってしまい、朝には悲惨な状況になっている。

綿100の布手袋で防ごうとしたが、それ自体が刺激になり痒くなるのでこれもやめた。

 

このときの嫁の精神状態もボロボロでよく泣いていた。

専業主婦だったこともあり家でひとり塞ぎ込んでたのも沈む気持ちに拍車をかけたのかもしれない。

 

家事の一切を請け負った僕の手はつるつるすべすべのままだった。

できるなら変わってあげたかった。

 

もちろん嫁も僕に甘えぱなしではない。

化学薬品でだめなら漢方はどうだ。

漢方薬なら昔、紫雲膏(しうんこう)というのが良いと聞いたことがある。

「紫雲膏を買うぞ」という嫁。

その話を聞きながら僕は「紫雲膏」がききますようにと、祈りながら仕事に出た。

 

そして数日後、我が家に「ベルクミン」が届いた。

 

あれ?紫雲膏は???

 

嫁の話によると紫雲膏をネットで調べていたら、とあるブログにたどり着いた。

そのブログには、症状が進みすぎている場合は昔紫雲膏よりベルクミンが良いとあったらしい。

ステロイドならベルクミンというくらい、その界隈では有名らしい。

 

 

ブログ主も、嫁と同じようにアトピー起因で肌荒れが激しい人だったのだが現在はベルクミンで水仕事もこなしているらしい。

(ブログのリンクは嫁と一緒に探して追記します)

 

とにかくベルクミンを試してみる。

黄色のクリームを患部全体に塗る嫁。手が少し黄色くなる。鼻を近づけると漢方の匂いが結構するが、不快というほどではない。

 

塗った直後の嫁の感想が

 

「痒みがかなり和らいで、肌に水分が染み込むような感じがする」

 

そんな即効性があるものなのかという感じだが、期待が持てる感想ではある。

とにかく大事なのは就寝時だ。風呂上がりしっかりとベルクミンを塗った。

ベッドでの嫁の感想が

 

「痒みがかなり和らいで、肌に水分が染み込むような感じがする」

 

さっき塗った時と同じことを言った。

しかし重要なのが風呂上がりは体温が上がり、就寝前には手の痒みがピークを迎えるはずということだ。

それが、ない。痒みはゼロではないが少しピリピリするくらいという。

 

そして迎えた朝。

手には掻きむしったあとはなかった。

痒みの抑制が一晩続いた証拠だ。

何より、赤みが引いている。

 

 

嫁と抱き合い喜んだ。

 

それから朝、昼、就寝前にはベルクミンを塗り続けてみた。

痒みはどんどん薄れ、赤みが引いていき、ステロイドでもダメだった右手の小指もツルツルになった。

左手は完治し、今現在は右手の手首に大きな肌荒れが残っているが、それも少しづつ小さく薄くなっている。

 

ポイントとしてはベルクミンは漢方由来なので何度でも濡れることだ。

厚みのあるクリームで水仕事中でもある程度洗い流されずバリア的に働いてくれる。

そして水仕事が終わったらすぐにベルクミンを塗り直し、常にベルクミンで覆われている状態にすることが重要だ。

完治したと思った箇所も薄めにぬっておく、油断しない。

 

結論としては保湿が大事なのであろう。

嫁は水を飲むことが嫌いなのも今回の肌荒れの原因の一つだろう。

この1年は随分と細かく「水を飲みなさい」と言った。

 

喉元過ぎれば熱さ忘れる。

今は水分摂取も、ベルクミンの塗りもさぼりがちの嫁だが、それでも就寝前の塗りだけでも効果は出ている。

 

 

 

 

 

【スパイダーマン・スパイダーバース感想】ポップカルチャーの波状攻撃に脳髄が痺れる。中毒性アニメーション映像ドラッグの誕生!

f:id:dappe828:20190324005400j:plainアカデミー賞のアニメ長編映画賞を受賞。スパイダーマン・スパイダーバース。いってみましょう。

OKもう一度説明するね?

スパイダーバースは普遍的なヒーロー誕生譚で老若男女楽しめる内容だと思います。人種的マイノリティであるプエルトリコアメリカ人である主人公の少年がスパイダーマンとして、そしてヒーローとして成長するという安心のストーリーです。

しかしこの映画にはストーリーを越えて何度も、映画館で観たくなる中毒性があります。

それはストリートカルチャーを主軸にした様々な表現と音楽が込められた映像にあります。

皆さんはユニバーサル・スタジオの映像アトラクションを体験したことはあるでしょうか。ハリー・ポッターエヴァンゲリオン等の映像を用いたアトラクションは人気を集めています。迫力ある2~3数分の映像のために沢山の人か並ぶのです。

本作スパイダーバースの映像にはUSJの人気アトラクションにも似た気持ちよさ、すなわちドラッギーな快感があります。

スパイダーマンがニューヨークの巨大なビル群のなかを飛び回るシーンの爽快感はなんともいえません。ドラッギー。

そしてこの爽快感を支える秘密は完全にコントロールされた画面作りにあります。

迫力のある映像というとハリウッド映画大作トランスフォーマーシリーズを例にしてみましょう。精密に描写された巨大なロボット生命体同士がこれまた精密な宇宙船のなかで格闘しその足元では小さな人間たちが逃げ惑う。激しい爆発と破壊。

派手です。大迫力です。しかし見てて疲れます。画面の情報量が多すぎて何を観客に見せたいのか分からないのです。

スパイダーバースのスパイダーマンがニューヨークのビル群を飛び、行き交う車の中を駆けるシーン。確かに背景はしっかり作られ実写と見間違うほどです。しかし画面の奥行に注目すると空気遠近法の要領か書き割りのようにペッタリ、薄い背景になっているのです。

そのことにより、手前のキャラクターやその周囲の背景に意識を向けることができ、観客はストレスフリーに画面の情報を受け取れるのです。

OKもう一度説明するね?
ここからはスパイダーバースのみに見られる新しい映像表現にもっと突っ込んでみます。

まず制作プロデューサーも言及していましたが、スパイダーバースはアニメーションでありコミックスでもあるということです。

映画冒頭にはコミックコードと呼ばれる映倫に対する漫倫がどんっ!と出てきます。制作者はこれから始まるのは漫画なんだよ!と観客に宣言しているわけですね。

主人公マイルズが蜘蛛に刺されスパイダーマンになるとコマ割風に絵が分割されたり、キャラクターのセリフや心情が吹き出しとなって表現されはじめます。何だったらかのカルトアニメ、フリクリのように完全に動く漫画のようになっているシーンも出てきます。

またシーン全体に昔のアメコミ特有の印刷の荒さゆえに見えるドットを効果的にテクスチャとして使用。

なにかキャラクターの感情表現が激しく揺さぶられるシーンでは版ズレと呼ばれるcmykの色味がぶれて描かれたり。

普通ならカメラに近い出前の人物をぼかしたりするところでも、版ズレや線を二重にして表現していました。

極めつけはアクション中のマイルズに電車の光りが当たった瞬間、色味は白と黒となりキャラクターや電車が実線で描写されるところ。
まるで日本の白黒漫画そのものです。

またキャラクターには3D動かしたあと、手書きでレタッチが加えられ、ディズニーアニメの完全に統一されたものとは違う、シーンごとに個性や味わい深さが出ています。

OKもう一度説明するね?
スパイダーバースはマルチバースという、自分の世界とは少し違う平行世界のスパイダーマンが一同に会します。

そのスパイダーマンたちがビジュアル的にとっても曲者で白黒の世界から来た奴やロボットを操る萌えアニメ風の女の子、カートゥンから来たペターと薄い2D感あるブタ。

萌えアニメ風の女の子は髪の毛が日本のアニメのようにまとまり感とテカりで表現され、目元もマイルズの世界のキャラクターと比べると随分簡略化されてます。

ブタにいたっては物理法則までもカートゥン化されポケットからハンマーを出してそれが急に巨大化し、なおかつ軽々振り回したり。手から滴る水が滴の形でぼたぼた落ちたり。まるでトムとジェリーです。


これだけ世界観が入り交じっても違和感なく画面にきちんと統一感が持たれているということは本当に驚異的です。


注目すべき点は全て書きました。後はこの映画を体験するだけ。

あ、吹き替え版がオススメです。宮野真守のくたびれたピーターBパーカーは本当に最高でした。

餃子を包むのは写経にも似た精神のリラクゼーションをもたらす

日々を仕事にプライベートに忙しく過ごしていると無性に餃子を作りたくなることってない?

お店の焼き餃子は油が合わないのか肉質のせいか、6個も食べたら口が欲しくなくなる。でも家で自分で包んだ餃子ならいくらでも食べれる。お腹ていっぱいになっても、口が欲しがる。自分で野菜を切って肉だねをつくり、皮で包んでごま油でパリパリの焼き色つける。二杯酢なんかにつけて食べたらもう何物にも変えがたい至福の時間だ。

しかし自分は本当に餃子を食べたいから餃子を作るのか?衝動的に沸き上がる餃子への渇望は美味しいからだけなのか?


ある日嫁の実家に自慢の餃子をつくりに行った。いつもの3倍、75個もの餃子を包む。これだけいっぺんに作るのは初めてのことだ。包む前は75個かぁ大変だろうけど頑張るぜ!という心構えだった。しかしだ、包み始めると20個を越えた辺りから不思議な感覚を覚えた。
口数が減り、嫁の家族の声が遠くなり、ただ餃子を包むために手を動かす。ふだんは散らかっている頭や心は空っぽになっていった。

まるで起きながら眠っているような不思議な心地。休めたくても休めることの無い脳がリラックスしているようだ。


気がつくと75個の餃子が包み終わっていた。
我ながらすごい集中力だ。
仕事でもこんなに集中したことがない。

昔これと同じような静かな集中力を得た経験した。うだるような暑さのなか、鎌倉のお寺で写経体験をした時だ。

友人二人と通された四畳間。
写経を書き進めるうちに心の波が静まり、周囲のざわめきも隣の友人たちも遠のいていく。
やがて筆先から宇宙が拡がりまだ見ぬ心理に近づいていく。

これだ。

餃子を包むことは宇宙の心理に近づくことだったのだ。

皮に水で縁取り、肉餡をスプーンで詰め、ひだを作り閉じる。その繰り返し。単純な作業だからこそ頭や心を空っぽにして集中することができる。

あの夏の日、お寺で体験した神秘体験を家の台所で追体験できた。

最近、写経がちょっとした流行を見せている。だけどお寺まで行くのは面倒くさいという人は餃子を包んでみてほしい。写経同様チャクラが開き、リラックス効果も抜群。

そして出来上りの餃子が美味しければ、その日はきっと良い一日になることだろう。




オススメレシピ
・餃子の皮25枚
・ひき肉150g
・白菜150g
・キャベツ150g
・塩大さじ半(白菜とキャベツを細かく刻んだものにまぜ10分おく)
紹興酒大さじ1
・醤油小さじ2
・ごま油小さじ2
・にんにくひとかけ
・しょうがひとかけ

『アリータ: バトル・エンジェル』感想|サイボーグ少女と生身の青年の青春。白熱のモーターボールでの戦い!モーションアクトとCGの融合の最高峰

f:id:dappe828:20190224002850j:plain
アリータ: バトル・エンジェル


Alita: Battle Angel
原作: 銃夢(木城ゆきと


歴代世界興行一位『アバター』と二位の『タイタニック』を生み出したヒットメーカーキャメロン・ディアスとジョン・ランドーがプロデュース。


監督は『スパイキッズ』『シンシティ』のロバート・ロドリゲス。世界ではいち速く公開され、週末の興行成績は各国一位。やっと日本でも公開された(日本の漫画が原作なのに!)
いってみましょう。


ストーリー

舞台ははるかな未来、何本ものパイプラインによって天上に繋ぎ止められている空中都市「ザレム」の真下には、ザレムから吐き出された廃棄物の山があり、これを囲う形でゴミを再利用して生きる人々が「アイアンシティ」(クズ鉄町)を形成していた。


ザレムからの廃棄物を、人体をサイボーグとして改造することが一般化した世界。


クズ鉄町でサイボーグ専門医を開業しているイド・ダイスケは、スクラップの山から、少女型サイボーグの上半身を掘り出す。


彼女は頭部と胸部しか残っておらず、イドの医療によって意識を取り戻しはしたものの、過去の記憶をすっかり失っていた。


イドは自分の名前も分からない彼女に、「アリータ」と名づけ、失われた腕や足など体の代用品を与えて育て始める。


時おり見せる高い身体能力と激情ともいえる精神性。彼女は一体何者なのか。


まず、天にはユートピア。地上の荒廃していながらもエネルギーに満ちたアイアンシティの世界観に心奪われます。街の奥行きに、そこに生活する体の一部からほぼ全身がサイボーグの人々。そして生身の人間たち。そんな世界で記憶とボディを失ったサイボーグ少女は目覚めます。


サイボーグであるアリータは今回の映画制作でフルCGで描かれています。


アリータ役のローラ・サラザールの表情や仕草、つまり演技がモーションキャプチャーによって繊細に情熱的に伝えられ、新しいボディで自分の頬をなぜる仕草などを見たときCGとは思えない実在感が感じられました。


そして予告が公開されたときから物議を呼んだ原作コミックスから飛び出したような大きな瞳もCGならでは。


私は予告を見すぎて映画の序盤にはなれてしまいましたが、違和感を感じる人も映画の序盤には気にならなくなるんじゃないかと思います。


キラキラした彼女の大きな目を通して見ると、どこか荒廃しているアイアンシティさえも輝いて見えます。


ヒューゴに見せる恋心、チョコを食べたときの感動や酒場でみせた怒りもアリータの感情が瞳の大きさに比例して3倍くらいになって伝わる気がしました。


本編の主軸にも据えられたサイボーグの少女と生身の人間との恋をメタ的にCGと生身の役者のスクリーン内の整合性。
さらに入子的に考えて全身がモーションキャプチャー用のグレースーツに身を包み、頭には重いヘルメットとカメラ、顔にはこれまたモーションキャプチャー用の大きな点々をつけた女優ときちんと衣装を身につけメイクした俳優が繊細なキスシーンを演じる。


こうしてみると、アリータにはいくつもの挑戦がありそこに想いを巡らせたり、インタビューを読み込んでみるのも面白い見方だと思います。


やがて犯罪の多発、ザレムの監視、アイアンシティの暗い面が露呈されていきアリータの舞台は青春から闘いへと移っていきます。


最近のCGのアクシヨンが軽く感じるのはモーションアクトスがワイヤーで吊られて動いているからではと個人的には推察します。地面に軸足を置かず踏ん張らない状態で蹴りを入れる、パンチすると、その力が込められてない状態でCGが動く。重さを感じられない、つまり軽い動きなのです。


予告を見たとき、戦うキャラクターのほとんどがCGだったのと、アリータは小柄な少女なので身軽に飛んだり跳ねたりすることが多くなります。そうなったとき、アクションは大丈夫なのか?軽くなっていないか?と心配しました。


そして本編のバトルシーンを観て、その心配は杞憂に終わりました。アクションがしっかり重いのです。相手に蹴りを入れる動きも、相手の攻撃を空中で回避する動きも。今回のモーションのメイキング
を観て理由が分かりました。


ワイヤーが使われていないのです。


縦横無尽に襲ってくるグラインドカッターを回避行動など、こんな動きできるの?って言うくらい腰を捻って飛び回り、酒ビンを二本、1度のジャンプで左右に蹴り飛ばすアクションを重心をぶらさず着地。ワイヤーがないのでふわーっとした着地にならず重みのある着地になっています。


恐らくワイヤーは一部のシーンでは使用されているとは思います。建物二階以上の高さを飛んだりしていたので。それでも着地までの安全な高さからはワイヤーを緩めてアクターの重みで着地するなど工夫しているのでは…と推察します。


とここまでは割りと褒めが多かったのですが、ここからは少し、いやかなり気になった物語の構成、つぎはぎ感について突っ込んでいきます。


この映画は本当に細かいところまで、原作コミックである銃夢(がんむ)への過剰なほどリスペクトが溢れています。今回の映画の物語は原作の3章分ほど詰められています。一章をマカクとの対決(映画では苦グリュシュカ)。二章をザレムを目指すユーゴとの青春(映画ではヒューゴ)。三章ではモーターボールでチャンピオンジャシュガンとの対決。


映画では原作の二章のヒューゴとの青春が物語の主軸としてそこにグリュシュカとの対決やモーターボールが絡められて、原作リスペクトのあまりかてんこ盛り過ぎて、ストーリーとしての調和がとれていませんでした。


何よりアリータとイド以外のキャラクターの背景が薄く描写も薄い。メインの適役グリュシュカはただの筋肉バカだし。


ヒューゴが犯罪を犯してまで切望するザレム行きの動機は最後まで不明のまま。そもそもアイアンシティが楽しそうな街のように見えるし、ヒューゴは仲間たちと楽しそうに暮らしてるしさ。なんでそんなにザレムに行きたいのか…。


CGであるアリータが一番人間らしく魅力的だったことは皮肉すら感じました。


黒幕であるディスティ・ノヴァにいたっては明らかなノイズ。出さない方が良かった。アニメ版のオリジナルキャラクターのイドの奥さんも物語上の必要性は感じられず。


それでもモーターボールのあのスピード感や迫力、原作でもあったヒューゴとの出会いのシーンでサイボーグのボディに恥ずかしさを感じ、腕を背中に隠す所を描いてくれただけで胸がいっぱいになりました。


原作漫画が好きすぎて辛口なことも描きましたが大きなスクリーンで見るべきエンターテイメント映画だと思います。未見の方は劇場に是非足を運んでください。

『羊たちの沈黙』感想|レンタル屋で迷ったら、この映画を見ろ!登場人物を通して凄惨な事件を最前線で追体験できるサイコスリラーの傑作!

f:id:dappe828:20190223184733j:plain
羊たちの沈黙
原題The Silence of the Lambs

アメリカの作家トマス・ハリス原作のサイコスリラー作品。その年のアカデミー賞、作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞、主要5部門を総ナメなめした、まさに傑作映画です。

ストーリー紹介
カンザスシティ (ミズーリ州)ほかアメリカ各地で、若い女性が殺害され皮膚を剥がれるという連続猟奇殺人事件が発生。逃走中の犯人は“バッファロー・ビル”と呼ばれていた。

FBIアカデミーの実習生クラリススターリング(ジョディ・フォスター)は、バージニアでの訓練中、行動科学課 (BSU)のクロフォード主任捜査官からある任務を課される。その任務とはバッファロー・ビル事件解明のために、監禁中の凶悪殺人犯の心理分析を行っていた、元精神科医の囚人ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンズ)に、事件に関する助言を求めることだった。

サイコスリラーらしく、前半は凄惨な事件、バッファロービルの異常性などが語られるのですが、それだけだと他のサイコスリラーと差がありません。この映画が一線を画しているのは主人公であるクラリス実習生と獄中のハンニバル・レクターとの特殊な関係性だと思います。

若く美しい、そして野心家でもあるクラリスが牢獄のガラス越しにバッファロービルもびっくりの異常殺人犯、食人鬼レクター博士との対面します。

なんとかレクターから事件のヒントを得たいクラリス。しかし協力を得るどころか、レクター博士に僅かな会話の中でクラリス自身の情報を引き抜かれてしまいました。

このときの、ガラス越しのアンソニーホプキンスの演技の迫力が凄まじく、この人本当に人くらい殺してるんじゃないか?と思わせるほどのリアリティーがあります。

こんな恐い人からヒントを引き出さないといけないとか、スカリーじゃなくても恐いです。私だったら対面した途端、逃げ帰ります。

キャリアは長いもののまだ年若かったジョディ・フォスターがレクターに出身地などを言い当てられたときの表情には演技以上の恐怖感が伝わってきます。同時にその表情からは恐怖に立ち向かおうという強い意志も伝わってくるのが、彼女が女優として素晴らしいところだと思います。

そして羊たちの沈黙は私が好きな映画と言うこともあるのですが特別、没入感が強く映画の世界に入り込むことができます。色々分析してみたところ、脇も含めた役者の演技、美術の作り込みの細やかさ、シーンを邪魔せず、盛り上げる音楽。
色々と要因があると思うのですが、一番の要因は独自のカメラワークにあると思い至りました。

その独自のカメラワークとは、ずばり一人称視点のカメラワークです。一人称視点のカメラワークとはなんやねん?という方のため、羊たちの沈黙内のワンシーンから説明いたします。

クラリスレクター博士と面会するため、初めて精神病棟を訪れたときです。初めは、クラリスや病棟のスタッフが画面の中に映っています。クラリスが銃を預け、レクター博士のもとへと続く不気味な
廊下へ施錠されていた柵を開いたあたりから、画面の中にクラリスは映らずカメラだけが進んでいくのです。まるで自分自身が薄暗いこの廊下に放り込まれかのような感覚になるのです。
薄暗い廊下に並ぶ鉄格子。レクター博士の他にも収監された精神患者でありながら、何らかの犯罪者たち。カメラが進む度に、興奮した猿のように嬌声や罵声がぶつけられるクラリスの不安な表情が挟まれます。私自身もどんどん不安になっていきます。やがて鉄格子の牢屋が途切れ、現れる小さな穴が空いた透明な分厚いガラスの壁。中には物静かに佇むレクター博士。まるで自分自身が足を運びレクター博士と対面してるかのよう。恐い。クラリスレクター博士の会話でも顔に寄った画面が続くので、まるでその場に居合わせているような感覚が続きます。

こうした演出は要所要所で出てきます。レクターが昔担当した精神患者の倉庫や、男だらけの警官に狭い部屋で囲まれたり、クラリス自身になったかのように、その場の冷気や居心地の悪さまで感じてきます。

そして一人称のカメラワークはラストシーンでもっとも効果的に使用されます。どうかご自身の目で確かめてください。

そしてこの映画のもうひとつの魅力である、サイコスリラーでありミステリー要素も多分に含まれています。

なぜバッファロービルは被害者を3日間生かしてから皮をはぐのか。1人目の被害者の遺体は石で川に沈められ、二人目以降の被害者は州をまたいで打ち捨てられたのか。被害者の口の中に入れられた“あれ”は、一体何を意味するのか?そしてスカリーの過去に起因するタイトルの羊たちの沈黙とは…?

是非スカリーになったつもりで、レクター博士のヒントをもとに犯人をプロファイルしてみてください。おすすめです!

『ボヘミアン・ラプソディー』感想|ライブエンターテイメントの極致。天才パフォーマーが孤独の旅の果てに辿り着いた安らぎの家QUEEN

f:id:dappe828:20190223185112j:plain
ボヘミアン・ラプソディ』(Bohemian Rhapsody

昨年末に公開されてから、このブログを書いている2月現在もロングランを続けている大ヒット映画、ボヘミアンラプソディーの感想です。


ストーリー
1970年のロンドン。ルックスやインドからの移民という出自に劣等感を抱くフレディ・マーキュリー(ラミ・マレック)は、厳格な父に反発しながらロックミュージックにのめり込んでいた。フレディが追っかけをしていたバンドのボーカルが脱退したというブライアン・メイ(グウィリム・リー)とロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)のバンド、スマイルズに自分を売り込む。類いまれな歌声に心を奪われた二人は彼をバンドに迎える。このスマイルズこそ、後の伝説のバンドQUEENだったー


映画冒頭、楽屋裏の控え室の扉が叩かれる。ついにQUEENの出番だ。マイクを手に取り、忙しく行き交うスタッフの中を悠然と進むピチピチの白いパンツとタンクトップの男の背中。向かうは10万人の観客が待つステージ。


そして時計は戻り1970年のロンドン。どこか自信なさげな青年が映し出される…


この冒頭のライブ直前のシーンがとにかくかっこいい!この時点では主人公であるフレディの顔は映らず、お預けされた気分。それも手伝ってか、この映画への期待が一気に高まります。そして物語はこの素晴らしいライブに向かって進んで行き、その過程を私は楽しむんだと思いました。

しかし時間が戻され、ついに主人公の顔がスクリーン映ったとき、私はぎょっとしてしまいました。

なんだか、すごい出っ歯。

役者の口にマウスピースのように歯をつけて役づくりをしているのでしょう。セリフが喋りずらそうでアクセントも少し変。

事実、フレディは歯並びが悪く、それがコンプレックスでもあったようです。しかしやりすぎのような…それともこんなものなのかな。映画ということで少し誇張したのかもしれないし。


そしてフレディは後のQUEENとなるバンドにボーカルとして加入。アルバムを制作しチャートイン。恋人と結婚。全米ツアーまで決定。まさにトントン拍子に進んでいきます。止まらないQUEENの快進撃。そしてついに映画のタイトルでもある、ボヘミアンラプソディーが収録されるセカンドアルバムの制作へ移ります。

ここまでのテンポはとても早く、物語についていくのが少し大変でした。2、3言喋った女の子と恋人同志になり、プロポーズ。初めてのライブシーンでフレディはバンドの既存曲の歌詞を代えて歌い、舞台上でメンバーに怒られますが、その事はとくに掘り下げられず。フレディの家族とバンドの親交会の際、彼の移民としてのコンプレックスが少し描かれますが以降特に触れられず。

そもそも主要な登場人物のはずのバンドメンバーもモブキャラのようでフレディの側にいてもあまり交流は描かれず。ドラマ部分に引っ掛りを感じつつも、趣向を凝らしたレコーディングシーン、(楽器以外のものも音にのせたり、テープが擦りきれるほど多重録音を重ねたり)は確かに楽しい。ライブ中のフレディの衣装なんかも最高です。


物語には乗りきれないけれど、映像は楽しいという不思議な気持ちで映画を観ていました。

物語は成功からマネージャーなど裏方との確執、そしてバンドメンバーとの確執。フレディはバンドは家族と言い放ったあと、多額の契約金に釣られソロデビュー。バンドを抜けたも同然の状態に。地位とお金を、手にいれてもフレディは孤独感に苛まされます。

しかし、そもそもバンドメンバーとの絆が描ききれてない気もするので、フレディのその後の孤独感が浅いのです。

そしてフレディのセクシャリティーの話もやはり浅い。

紆余曲折を経てバンドメンバーととりあえず和解。厳格な父ともなんとなく和解。ちぐはぐなまま冒頭のライブシーンへなだれ込んでいきます。


あとから思い返すと私が物語だと思っていた箇所はフレディ・マーキュリーのというスターの年表のダイジェスト、バラエティー番組の再現VTRのように感じられました。だから、物語は進んでいるのに、人物像が掘り下げられず、ドラマの積み上がりを感じなかったのでしょう。

それでも観客10万人、衛星中継で何億という視聴者へ向けての伝説のパフォーマンスの再現は素晴らしく、是非映画の巨大スクリーンと音響で体験すべきものだとも思いました。

映画にはたまにあるのですが、脚本がイマイチのものに素晴らしい映像とキャストが揃い、ラストシーンが盛り上がるハッピーエンドだと、何だかモヤっとしたけれど見終わった後は何だか良い映画だった気もするのです。

ボヘミアンラプソディーは周囲と自分とどう向き合うかという普遍のテーマが扱われています。フレディ・マーキュリーという天才ですらそれからは逃れられなかった。しかし、回り道しながらも進み続け、彼は自分自身で一度は手放したバンドメンバーや家族、親友という安らぎの家に帰ったのでしょう。